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  • 2011.09.21 Wednesday
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『コクリコ坂から』とティルティングの方向について

やっとのことで、時間が出来て、『コクリコ坂から』を見ることが出来た。
以下、ぼくの備忘録的なメモである。一度しか見ていないため、そして公開中にもう一度みる時間を作れそうにないため、記述はかなり未熟なものだ。
ただ、ぼくの見方を、断片的に提示しておこうと思う。


『コクリコ坂から』の最初のショットは、いつものジブリの画像イメージである。その裏で、ネジをかりかりと回す音が聞こえ、そのまま振り子時計が秒針を刻み始め、それに併せて音楽が流れる。
次のショットは、いわゆる設定ショット、エスタブリッシング・ショットである。
ここで重要なのは、ジブリのイメージに続く2つのショットが、パニングやティルティングといった、カメラの「首の」動きを伴っていることである
そしてそのパニングおよびティルティングは、それぞれ、左から右へ下から上へという動きを行っている。

ここで一応、パニングおよびティルティングについて、簡単な説明をしておきたい。
パニングとは、カメラをパンすることである。パンとはカメラそれ自体の位置を動かさずに、カメラの向きだけを、水平方向へと可動させることだ。
同様に、ティルティングとは、カメラをティルトすることであり、ティルトとは、パンの垂直ヴァージョン、つまりカメラの首を縦に振ることを意味する。

断言しよう。
本作品には、パンおよびティルトがやたらと多い。
その代わりに、固定ショット=フィックスの画面が非常に短い。
例えば、固定ショットで人物の移動を縦の構図で収めたショットは確かに頻発する。
その被写体の運動は基本的に画面の奥へと向かう運動なのだが、ここでのショットの持続時間は、長くて3秒ほどであり、極めて短いと言わざるを得ない。

そう、この映画のフィックスのショットは、ほとんど持続せず、せわしなく次のショットへと移行していくことになる。
これを娯楽作品の、しかもアニメ作品の特徴だと考えることは確かに可能だろう。
しかし、例えば『借りぐらしのアリエッティ』と比較したとき、どうだろうか。このフィックスのショットのせわしなさは、確かに強調してよいものとなるのではないか。
あるいはそれを『ポニョ』と比べても良いだろうし、宮崎駿の以前の作品と比べても良い。

フィックスのショットは、基本的に、本作において持続しない。

では比較的持続するショットとはどのようなものなのか。
それはもちろん、パンを伴うショットや、ティルトを用いたショットであろう。

繰り返して言おう。
ここで指摘しておかなければならないこと、それはパンおよびティルトの方向である。
既に述べたように、パンは左から右へ、ティルトは下から上へと動いている。
これは本作において決定的に重要だ。

そもそもこの作品はなぜ『コクリコ坂から』というタイトルなのだろう。
これは大きな疑問である。
海の住む家の名前、それは「コクリコ荘」である。なぜ「コクリコ荘から」、ではなく、『コクリコ坂から』なのか。
この作品が例えば海という少女を主人公とした、海の周辺を舞台とした作品であるにも関わらず、なぜ坂なのかという疑問は、出てきて当然のことなのではないか。
私たちはそれを問わなければならない。

もちろんこの問いに対する正解はない。
しかし問いかけは必要である。
なぜなら、その問いが新たな読みを誘発する可能性があるからだ。

ところでぼくはこの映画を見ているときに、坂を上がる人物を見ただろうか?
確かに風間は、海が肉を買いにいこうとしたとき、立ちこぎで坂を上がってきた。しかしそれはほとんど画面に捉えられていなかったのではないか。
海が、魚屋でカレイを買おうとし、しかし討論集会へと向かうとき、私たちは彼女が坂を上がるところを目にしたのだろうか。

これは厳密に見ていないので、断言することは出来ない。けれど人物たちは、特に海と風間は、坂を上る様子をほとんど描かれないと言ってよい。
彼らはひたすら坂を下っていくのだ。

だとすれば、カメラのティルトは、すなわち下から上へというカメラの運動は、彼らの運動とは対照的な動きとなっていると言えるかもしれない。
ぼくたちの視覚は下から上へと擬似的に坂を上っていく。

とすれば、これは一種の異化かもしれない、と思ってみたりしよう。
つまりぼくたちは、海や風間と、同一化を阻害されているのだ。
カメラの動きによって。

しかしこのカメラの動きは、常に下から上へと動いているわけではない。
ある時点から、唐突に、逆の動きを繰り返し始めるのである。
つまりそれは、風間が海の家にやってきて、海の父の写真を見た後から、である。

そしてそれ以降、最後のショットまで、それまでのパンの多さからは比較にならないほどに、カメラの水平方向への首振りは見られなくなり、ティルトは上から下へという動きを反復する。
ここから、物語は明るさを失い始める。そして近親相姦という重いテーマへと踏み込んでいくのである。

これが基本的なぼくのこの映画の見方である。
すなわち、カメラの首振りの方向、とくに上下の運動が、物語(プロット)の展開と結びつき、まとめあげられているのである。

クライマックスのシーンで、彼らは父の友人である船乗りと話をする。
なぜ。
そう、なぜ、と問うておこう。
なぜ彼と会わなければならなかったのか。
それは彼らを「上らせる」ためだったのではないだろうか。

この映画の感動的なシーンのひとつとして、海が船に飛び移るときの、あの、風間との抱擁が挙げられるだろう。
しかし本当に感動的なのはそこではないのだ。
そこではなくて、そのあと、何事もなかったように船の階段を上がっていく、あのなんでもないシーンなのだ。

ここで私たちは、再び異化をつきつけられる。
すなわち、カメラの上から下へという運動と逆の、下から上へという上昇。
そのあとのティルトの動きは、ご自分の目で確かめて頂きたいと思う。



ところで、コクリコ荘は一体「坂」のどこに位置しているのだろうか。
これが非常に疑問であるのだ。
海が学校へと向かうとき、彼女は坂を「上っている」ように見える。なぜなら下校時、彼女は坂を「下っている」からだ。
しかし、自転車に乗った風間はどこから現れたのか。
そう。坂の下からなのである。
こうしてコクリコ荘は坂の「上」でもなく、かといって「下」でもない、決定不可能な位置に身を置くこととなる。






さて、ここまでがだいたいのぼくの「思いつき」なわけだけれど、全体的な感想としては、ぼくは本作よりも断然『アリエッティ』の方を支持する。
その一番の理由は、やはり、『コクリコ坂』のせわしなさにある。
この作品には、緩急というものがまるで感じられなかった。
もちろん物語上の緩急はある。ぼくが言いたいのは、画面上の緩急である。

じっくりと見せた方がいいのではないか、とおもうショットが、あっさりと消えていく画面の連鎖を見ていると、これでいいのかなあと、ただただ思ったわけです。

あと、『アリエッティ』と比べて、ロマンスの描き方が拙い。
『アリエッティ』では、視線という装置を巧みに使いながら、映画史における、見られる女性というコードを転覆しつつ、積極的に見ようとするアリエッティと少年の、視線の交わらなさを、二人のロマンスに上手く転奏させていたのだった。
けれど『コクリコ坂』は、意味的な要素(=異母兄弟か否か)がそのドラマの掛け金となっていて、それはやはり、『アリエッティ』の映画的な面白さとは比べ物にならないと思う。

総じて、まあまあな作品だった。佳作だと思う。

ぼくは『アリエッティ』の監督の新作が見たい。
宮崎駿のよりも。

『あの花』、あるいは長井龍雪についての覚書

長井龍雪について考えてる。

きっかけは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)の視聴だったわけだが。まあ単純に面白いから。

で。
集中的に『とらドラ!』と『とある科学の超電磁砲』を見た。
究極的に言えばこの監督の作品は、音を消しても完全に物語が理解できる。画面で物語が語れちゃってる。だから逆に言えば喋り過ぎなんだけど、まあこれはTVアニメの宿命みたいなもんだから、ある程度は仕方ない。画面がよければとりあえずそれでいいんだよ。

ところで話は変わるのだけれど、今期注目されている作品のなかに『花咲くいろは』(以下『いろは』)という作品がある。あらすじとかは調べればすぐ分かることなんで書かない。とりあえず4話まで見た感じでは、ぼくのこのアニメに対する評価は低くならざるをえない。なぜなら、すべてが辻褄合わせに向かっている。だから話がだるい。
これは予想が出来るとか出来ないとかそういうことではない。物語のプロットの種類は決まってるから、そういうのは当たり前と言うか、ある程度物語を消費すればわかることで、そんなことは全く問題ではないのだ。
そうではなくて、問題なのはすべてがあまりにもあっさりと辻褄があっちゃうってこと。

この辺を上手く説明できないのは、ぼくの力不足なのだが、それが如実に現れているのは、OP映像である。

http://www.youtube.com/v/zANnc4AGMP0

このOP、途中までは素晴らしいのだけれど、前述したような危険に満ち満ちている。終盤までは非常に躍動的で「運動的」とも言えそうな素晴らしい映像が続くのだけれど、その最も顕著なものが「走ること」だ。
登場人物2人がただひたすら走っている。時にこけそうになったりしながらも、ひたすら走る。この動きは感動的なまでに生き生きとしている。
しかし、OPのラストで、彼女たちは電車に間に合う。これによりこの運動があらすじ化される。すなわち、彼女たちは電車に乗り遅れそうだったので走っていました。そして間に合いました。というような形に。

結末によってすべてが回収されてしまい、ただ単純に「走ること」の魅力が失われてしまう。重要なのは「走ること」ではなくて、電車に間に合った、という物語性に転化してしまうように思われるのだ。

さて、なぜここで『いろは』を引き合いに出したのか。それはもうお分かりだと思うけれど、つまり長井龍雪のOP映像におけるデクパージュにはこのようなあらすじ的な、結果に収束されてしまうような運動がない。運動の意味への従属が存在しない。

たとえば『とらドラ!』のOP。

http://www.youtube.com/v/5BNF75bsafk

ここでは先のように考えるのであれば、「歩くこと」がその運動そのものとして輝いているかどうかが重要なのだが、どうだろう。少なくとも安易な物語性に「歩くこと」は回収されていない。加えて魅力的なのは、例えばクラスメイトが雑談をしているとき、画面の外を見るという奇妙なことまでが生じている。彼らが何を見ているのかは明示されない。ここでは話をやめて視線を他の方向に向けるということ〈しか〉起きていない。というより、こう説明するしかない。画面内だけで充足させることを避けようとしているかのようにも見える(このあたりの画面外の想像力の問題については、黒沢清著『黒沢清、21世紀の映画を語る』に詳しい)。
(また、更によく分からないのが1ショット目である。ここではかなり複雑なことが起きているのだけれど、とりあえずあのカメラのなんとも形容しようのない不思議な動きは一体なんなのか。)

もうひとつ。『超電磁砲』のOP。

http://www.youtube.com/v/evrUU-CT1TM

ここでも「走ること」は結末に回収されない。一体なぜ走っているのかよく分からないが、けれど走っている動きそれ自体の魅力をそのまま見せようという意志が感じられる。これは2期のOPに関しても同様である。
それ以上に興味深いのは、サビに入ったときの動きの抑制っぷりであるけれど、これはちょっと別の話なので置いとく。
(『超電磁砲』に関しては、本編中興味深い現象が「風」なのだけれど、これはまだまとまったものとして自分のなかに出てないのでアイデアとして書いておくことにする。例えば画面に風車が出てくるときは、必ず風車は回転している。これは風車がどんなに後景に小さくおさめられていても絶対に変わらない。一方雲は動くときと動かないときとがある。しかし単に後景だから動かないのだ、という安易な考えは捨てなければならないのである。なぜなら何かの後景に雲が捉えられていたとしても、雲が動くショットというのが作品中幾度も登場するからである。)

日常というのは全く意味をもっていない。少なくとも期待するような物語はない。
『とらドラ!』、『超電磁砲』には勿論物語があるが、それ以上になんのことはない日常が多く描かれ、そういったときにこそ絵はぬるぬる動く。日常の、「物語」という論理的な認識で捉えられない魅力を描こうとしている。

(まあ、ただ、例えば鈴木卓爾監督の『ゲゲゲの女房』なんかは、その意味で他を圧倒している。日常における細部の豊かさを露呈すること。それは実写でも難しいけれど、アニメだともっと難しいのだから、『ゲゲゲ』と比べるのはきつい)

では『あの花』はどうなのだろうか。

http://www.youtube.com/v/IGPftDyVlTc

これがOP。いろいろ考えることはあるけど、やっぱり魅力的である。ただ、本編と関係なくこれを見た時、最後のを収束とみるべきかどうか怪しい所。それよりもぼくは長井龍雪が別の次元に入っていったという見方をしたい。すなわち、ドゥルーズ的に言うならば、「運動イメージから時間イメージへ」。この辺はちょっと気力があるときに集中的に考えたい。

で、もっと素晴らしいのはED。

http://www.youtube.com/v/ZPcPPZVGpnU

これほんとすごくて、感動しちゃうんだけど、まあ勿論ここで大事なのは花びらの下降→上昇→下降という運動なんだが、これもOP同様に「時間イメージ」的だとぼくは思う。
(ぼくらの世代からすればこのED曲は青少年時代に腐るほどTVで流れていた曲で、まあノスタルジックな曲なんだけれど、それとこの花びらの動きとはかなり密接に関係してるんじゃないかとか思うんですね。)

もちろん本編でも語りたいことはある。
彼らがこれから「ことば」ではなく「からだ」、あるいは「動き」によって和解していくだろうことは2話まで見ただけで想像に難くない。『とらドラ!』における殴り合いのように。けれど『とらドラ!』はそれを「ことば」でもやってしまっていた。繰り返しになるがそれがTVアニメのメディア的特性であることは否定できない。しかし『あの花』2話では全くもって「ことば」で分かりあおうとしていないではないか。
そもそも1話でも2話でもヒロインの芽衣子がなぜ人や物に触れるのか、なぜ肉を食らうのか、風呂に入るのかといった疑問があるようだが、これはそういった志向によってもたらされたものであるのではないか。だからこういった所に辻褄合わせを求め、それが解消されないから作品的にダメ、みたいなことは何の意味もない。「幽霊なんていない」と言うことが何の意味もないように。だからゴーストである芽衣子は、自分の家に帰ったとき机にぶつかり水をこぼす。肉をおいしそうに食べる。そういった「からだ」の動きを見ることで、たとえば主人公は動かされていくのである。そしてそれに呼応するように、かつての動きを覚えている主人公の「からだ」を媒介にして他の人間の「からだ」も影響されていく。


ドイツ文学者の丘沢静也は最近出版された『ツァラトゥストラ』(光文社古典新訳文庫)の解説のなかで、

Seit ich den Leib besser kenne, ist mir der Geist nur noch gleichsam Geist;

という部分をつぎのように訳している。

《からだ(傍点)と親しくなってから、俺には精神(ガイスト)なんて、幽霊(ガイスト)みたいなものにすぎないと思える》(上p.314。なお、本文中の記述はp.265)

こういうところにニーチェが潜んでいる。
とか言ってみる。冗談だが。半分。


みたいなことを考えつつ。

ちゃんと書こうと思ったら時間がかかるのでアイデアスケッチ的に。
しかしアニメも面白いのあるんだなあと最近しみじみ感じる。数はすっくないけど。


(追記)
『とらドラ!』では川嶋亜美が一番良いと思うんだよね。すごく人間的でいい。最後の方はただのいい人になってしまって残念だったけれど、ずっと主人公がこいつと付き合って終わりってのはバカみたいだし非難轟々だろうけれど変にリアルで面白いだろうな、とか思って見てた。リアルだからいいとかそういうことが言いたいわけではないというかリアルなわけなんてねーだろアニメなんだから、というのは前提として。

(追記2)
ちなみに本編に言及をあまりしなかったのは意図的なもの。ここでは長井龍雪について語りたいという欲望があった。そのため彼がコンテを描いたopの分析だけを書いたのです。
アニメってのは共同作業の結果出てくるものだから、単純に監督や脚本家やキャラクターデザイナーやプロデューサーや...といった1人の作家に所属させることは出来ない。当たり前だけど。
まあ戦略としてそういう立場をとることもできるけどそういうことはする気がないので。

(補足)
誤解されそうなので書いておくがべつに『いろは』がまっったくダメだとか言いたいわけではない。比較的面白い作品だと思う。ただ引き合いに出しただけ。
ただまあ、少なくとも第4話は退屈だったというほかない。


謝辞。そして『ソルト』。

 ニクロさん、という方がいて。
『ニクロのクレイアニメへようこそ』というサイト、http://www2.ocn.ne.jp/~nikuro/sub13.html
このサイトでアリエッティの論文を書いてらっしゃる方なのだけど。


ぼくのアリエッティの批評と言っていいのかどうなのかいやだめだろうそうだろうな記事にコメントしてくださっていた。
本当にありがたい。感謝します。

まずお返事が遅れたこと、お詫びします。
メールを送ろうかと思ったんですが、それもちょっと野暮なんじゃないか、と思ったので。こんな形で。
まあなんていうか、ぼくは本当に映画を見てきていないと断言できるようなクソ野郎なのであります。映画を見始めたのは、それこそここ数年であって、それも大学に入ってから数年たってしまった後でして、更に言えば山口と言う辺鄙すぎる田舎にいるため、ほとんど映画をみること叶わない、という劣悪な環境で、まあなんとか映画の「訓練」をしているわけであります。
けどまあ、ぼくが書いてるようなこと、というのは、ほとんど理解されないのだと、最近強く感じていて、ちょっと絶望しかけていた。というよりも、例えばこうしてネットで書く、という行為が、それもホームページを持たずにブログで書く、という、そのことがあまりにも無力に思えてしまっていたのです。だから、アリエッティに関しても、もう一度見に行ったわけで、そして修正点とかも洗い出したわけですが、なんか書く気にならず、それはこんなこと書いても理解してくれる人なんていない、とふてていたからなわけです。
例えばアリエッティの主観ショットの多さは、やはり特筆すべきものがある。特に最初の「借り」の際には、異常なほどであり、それは盗み見られることを強く意識させるように作ってある、ということでしょう。あるいは暗転。計2回ある暗転は、いずれもアリエッティの瞼と連動しています。つまりアリエッティが目をつぶり、見ることを止めたときに、それに伴って画面は真っ黒になる。更に、ダンゴムシ同士で見詰め合うショットをそれとなく入れている。明らかにどこを見ているのか分からないような目の「絵」で。
あるいは、「網戸」にひっかかったカラスのシーン。ここでアリエッティは明らかに盗み見ている。やはり網戸は完全にマクガフィンじゃないか。そう思うわけです。手紙も、網戸も、アリエッティに見させるために機能している。それだけのためです。

だから手紙に書かれた内容について云々することに意味はない。ヒッチコックの鞄の中身を考えるくらいに。それはゲームとしては楽しいかもしれませんが、全く映画的ではないでしょう。

ニクロさんのように、きちんとした文章で公開していないのにも関わらず、視線の映画だという論旨を汲み取っていただけてありがたいです。
この映画は視線の映画なのです。それ以外に語るところがないくらいに。
テーマが一貫している。
だからこそ素晴らしいと思います。


長くなってしまいましたが、ニクロさんのコメントによって、ぼくも書くことを止めないでいようと思いました。これは断じて自己満足ではないのだと。作品を尊重する態度なのだと。
だからこそ共感されることはないかもしれない。でも止めてはいけない。

背中を押していただけた気持ちです。ありがとうございました。





さて。
視線の問題、というのはおそらく非常に映画的な問題だと思います。
8月1日に『ソルト』という映画を見に行って、そのことは簡単にtwitterにも書いたのですが、ここでもう一度書いておこうと思います。今日2回目を見に行ってきたので。やっと。

問題も多い映画だと思いますが、こういう「褒めにくい」映画を褒める必要性、というものに駆られてみようかなと。

この映画も非常に主観ショットが多い映画です。
しかし重要な点は、それがなぜ主観ショットだと言えそうなのか、ということであり、それはすべて、「人物がカメラをまっすぐ見つめている」ショットだからだ、ということになります。問題はその主観性にあるわけではない。むしろこの、「カメラとの対峙」にこそその主眼が置かれている。
こうして考えてみると、この映画、画面が最初からラストどうなるのかを予見している。アンジェリーナ・ジョリーがカメラに向き合っているショット、というのは、あの同僚の白人とか、オルロフとかとの切り返しには一切出てこない。反面、ピーボディとの切り返しにはロシアのスパイだと疑われ始めるときから正面からのショットが出てきている。これは何なのか。同様に、夫との切り返しショットでも、アンジーのカメラへの目線は出てくる。最後の同僚との切り返しではどうか。もちろんないのです。これが何を意味するのかは、映画を見た方なら誰でも分かるでしょう。

アクションシーンの雑さ、みたいなものは、だれにでも指摘できることなわけで、むしろ映画的に褒める部分は、例えば逆さのチェアーの足を意味もなく触れて回転させたりするショットや、ほこりの白さを際立てるために黒髪に染めること。その染めるという行為をするために金髪にしておくこと。そして持続を作り出すために、最も分かりやすい視覚的特徴である、顔の一部と考えていい髪形を、任務ごとに変えるということ。こういった点を見ると、アクションシーンの汚さは、それを補って余りあるのではないか。なんて思ったりするわけです。

ね。

『借りぐらしのアリエッティ』〜揺れる瞳という表現〜(仮)

 『借りぐらしのアリエッティ』見てきました。
一応もう一度見てきてちゃんと批評めいた事は書こうと思っていますが、しかしこの映画本当に素晴らしいもので、もう一回見る前に書いておきたいという衝動が押さえきれなくなり、こうしてキーボードを打っている訳です。

巷の評判が嫌でも耳に入ってくる現代ですが、この映画はかなり悪い評判ばかり聞いており、しかしポニョのときもそうだった。あの時もさんざんみんなけなしたりしてたくせに今となってはどうだよ、褒めちゃう。ぼくの耳に入ってくるものがすべてではありませんが、大体世間というのはそういう風に動いているようで、みんなが良かった、良かった、という作品は基本的に良いものではなく、かえって公開当初は評判の悪かったものが再評価されたりするものでしょう。一般論として。
なのでぼくは非常に期待してこの映画を見に行ったのでした。
そしてその期待を上回ってくれたのです。この映画。

さて。
とりあえず今回は(仮)ということなので、詳細な分析は行いません。基本的にしっかりと批評しようと思ったら、少なくとも2回は作品を見なければ出来ない でしょう。でなければ当然粗が出てきます。映画は時間メディアであり運動メディアであるため、途中メモする、という反ー運動的な行為をぼくは行いません し、なにより全体と集合、そして部分という関係性をしっかりともって見るためには、一度では把握できないのは当然であり、ぱぱっとみて終いならばよいので すが、抜け落ちてしまう部分が出てきてしまうことに確実になります。そのため今回は、気になった点をざっと書いておこうと思います。
間違っても、見るべきところがないような作品ではない、というぼく個人の主張です。



(以下ネタばれあり)
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私がなぜ、『Angel Beats!』の視聴を第1話で辞めるに至ったか。

なにやら巷で話題の『Angel Beats!』というアニメがあって、ぼくは一応第1話だけ見たのですけれども、なんとも別に新しくも何ともなく、加えて『けいおん!!』という神アニメが同時期に放送しているという事実も有り、切ったのですが、twitterのTLで流れてくる記事や議論など何となく見てみると、擁護/支持派も批判派も、特にきちんとした主張をしておらず、また批判をすると、「なぜ見るのか」などというどうしようもない反論を加えるという始末であったりするようで、少なくともぼくが見て面白い意見など皆目ないので、余興になぜぼくがこのアニメを見る事を辞めたのか、というのを、できるだけ具体的に記述したいと考えました。特にぼくのこの記事が誰かに有益になるかは分かりませんが、しかし、ぼくという個人の主張の根拠にはなるでしょう。加えて感情的な反論というものの抑制にもなるのではないかと考えています。
言うなれば以下の記述は、ぼくが『Angel Beats!』を評価しないという、その主張の背景でしかないかもしれません。

まず、ぼくは物語的な見地から分析を行いません。実際この物語を第1話しか見ていないぼくには、物語というものの分析が出来るわけがないでしょう。ぼくは形式主義者である、というのが以下の議論の前提です。もちろん、物語と形式は不可分なものであることは承知ですが、あくまで今回は形式(ショット)の分析を行いたいと考えています。
またぼくはあんまり論理的に文章を書くのが上手くないので、少々断片的な記述になってしまうかもしれません。申し訳有りませんが、そのあたりはご承知ください。

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劇場版 銀魂 新訳紅桜篇

 見てきました。
とりあえずぼくは銀魂、というアニメもマンガも熱心に見ている方ではなく、キッズステーションとかでやってたら何となく見る、程度ですので、この紅桜篇もちゃんと通して見たことはなかったわけで、まあそういうとこを加味して読んでもらえるとうれしいです。

さて。早速ですが、以下のような映画評が「公」的なサイトで掲載されています。

http://www.cinemaonline.jp/review/kou/11885.html

このサイトの趣旨というのは、次のようなものであるとも書いてあります。

「毎週封切られる膨大な数の映画たちから何を選ぶか。迷ったら、このページをチェックしてください。
どんな映画にも必ずひとつはあるイイ所を見つけだすのが、私の得意技。
女性ならではの視点で斬る映画評は、きっとお役に立つはずです。」

はいはいはいなるほどなるほど。いいところを見つけ出すわけです。また、映画を見る前に見る用のサイトであるということが分かります。そのため、おそらくネタバレには相当に注意して書いているのでしょう。だって中身がまるでないもの。
この映画についてこの批評で書かれていることは次のようなものです。
・映画の始まりと終わりがサイコーに笑えて楽しい
・オープニングはBGMのみの静止画
・大迫力のバトルが終わってのエンディングは、ニセ予告編が登場し、それに異議を唱える原作のキャラたちがワラワラと出てきて収拾がつかないほどの大騒ぎ
まあ以上の3点でしょう。うち1点(オープニング〜)については、「BGMのみ」ではなく「BGのみ」なわけで、そう本編でも言っているのですが、どっちでもいいだろう?ということなのでしょう。間違っても「バックグラウンドミュジックのみ」ではないと思うのですが、わかるだろう、ということなのでしょうか。まあこれだけしか書いていないにもかかわらずこんな粗がある、というのはきちんと見ていない、ということでしょう。
映画評としてどうかとおもうのは、この評において映画についての話がこれだけしかないにもかかわらず、映画以外のことに関してだらだらと語っていることです。いいところを見つけるのはいいのですが、いいところ、というのはそんなに適当なものでいいのでしょうか。映画におけるいいところを見つけるのではないのかと。

「映画のツボや隠れた見所にちゃんと気付く男性を、女性は見逃しません」

だそうですので、つまり「映画の始まりと終わりがサイコーに笑えて楽しい」というのが映画のツボであるとするのならば、ここで笑え、ということですね。つまりコンテクストマーカーとしての批評というわけです。
あとひとつだけ、最も問題だと思うことは、なぜ60点なのか、という、その根拠がどこにも書かれていないことです。加点法なのか減点法なのか知りませんが、残りの40点というのは何なのか。

まあ、そんなことはいいとして。

ぼくの話をしますが、ぼくはこの映画の中で笑えたところ、というのは2カ所しかありませんでした。大雑把に言ってしまえば、それはオープニングとエンディングなのですが、ここには笑いにおけるもっとも基本的な「繰り返し」と「違い」があります。つまり「差異」と「反復」です。オープニングのあの、何度も出現する「WB」のくだり。あれは完全に映画「内」の反復でしょう。批評的な機能云々はここでは置いておくとして、3度繰り返されるあの映像は、「BGオンリー」とされるアヴァンパートとは対比的に良く動きます。
さて、ここで先ほどから何度も使用している「BGオンリー」ですが、これはつまり「バックグラウンド=背景オンリー」ということです。つまり画面上には「背景」しかない、ということなわけです。しかしこれは本当なのでしょうか。よくよく画面を見てみると、画面左上から陽の光が差し込んでいるわけです。そしてこれは確実に動いており、なおかつその光は時間の経過とともに伸びています。これはどう考えても「BGオンリー」ではないわけです。確実に「中景」あるいは「前景/近景」であって、ふたつのレイヤーが存在している、ということになります。これのどこが差異なのか、というと、アニメ版のこのような演出の際、すべてを確認している訳ではないので見落としもあるかもしれませんが、確実に画面には「背景」しかないのです。絶対に陽の光などは差し込んでいません。これがアニメ版との「差異」である、というわけであり、この演出には映画全体に通奏する「主題」が隠されているわけです。普段行わない演出を、映画版では「あえて」使用しているのですから、これは故意だと考えられるわけです。そして案の定、というべきか、この作品全体にはひとつ大きな「光」というテーマが存在しています。このテーマをアヴァン部分で視覚的に露呈させてしまうところにこの映画の一番の「ツボ」があるといってもいいでしょう。実際最後あたりのショットでも陽の光が動いています。そしてそれは人物よりも「前」にあるわけで、陽の光の存在するレイヤーは「最前景」であることがわかるわけです。他にも本編中に万屋の窓から光が差し込む演出、あるいは逆光の演出が多用されます。
あるいはニセ予告ですが、アニメ版を見てみると、第2期の柳生篇が始まる前の回において、「映画ウソ予告」があるわけです。そしてこれは「紅桜篇」の偽映画化企画であるということがわかるわけですが、このニセ予告がアニメ版の「差異と反復」であり、ウソであるということを「特報」というテロップの時点で示しつつも、しかし続編が本当に製作されるかもしれないという、微妙なギャグであって、これも同じくアニメ版との「反復」であると考えることも出来るでしょう。

これがぼくの考えるこの映画の「ツボ」なわけですが、だからといってこの映画が手放しに褒められるものではありません。
まず台詞の多さ。原作のマンガはこれを売りにしているところもありますが、映像作品にする際にはこのまましていい、というわけではありません。マンガにおいては台詞すらも「画面」ですが、映画においては違います。原作通りにして、原作と同じだという安心を与えたいのかもしれませんが、そんなものは糞の役にも立たないと、ぼくは言うほかありません。映画にするのであれば、映画として成立させてほしかった。これが最も大きな不満です。
あと、歌をクライマックスに使用する方法。これはかなりベタで、容易に感動へ向かわせることが出来るのですが、出来るならばそんな安易な方法は取ってほしくなかったという気持ちです。しかしまあ、それは特撮/アニメ史的には正当な文脈でしょうから、そこまで求めるのは酷な気がします。

(追記)
原作読んでないと分かんない、アニメ版見てないと分かんない、という感想をなんか目にするのですが、別にそんなことないだろうと思います。それこそ「国民的アニメ」においても、キャラクターの設定などは一切説明されないこともある訳で、それがなぜ分かるか、というと、空気としか言いようがないでしょう。「国民的」と冠することで、そのコンテクストがある種コード化されるわけです。つまり、お約束化。そういうことを強制して成立するものが国民的アニメであるわけでしょう。アニメの映画化については、そこまで面白いと思えませんが、しかし訳が分からないということはないはず。問題なのは、画面が本当に貧乏なこと。これは作画云々とか言う訳ではなくて、カット割りとかですが、しかし、そういった点に置いて、それこそ「国民的」アニメとは視覚的に異質なわけで、その点はまあいいじゃんとぼくなんかは思います。なによりあんなに分かりやすいプロットで、分かんない、というのは、実はむしろ映画的で豊かなんじゃないかと思う訳です。で、ぼくはそんなことは全然感じないので、あんまり面白くないと言ってるのです。ほんと、あれだけ説明されて分かんないってんなら、理解力が極度にないか、運動的で豊かである=物語的でなく断片的ということなわけです。どう考えても後者みたいな良い作品ではないのですから。
あと映像的に面白くない、すごくないというのもあるけれど、ぼくはまあ、まずまずすごいと思うんですが。その点については。見てるところが違うのかもしれないですが。一体どんなアニメが「日本」のアニメ的なすごさを持っているのかと。ジブリかと。ジブリはそりゃすごいですが、この映画とは完全に方向を異としていて、つまり物語的ではないのだと。だからすごいんであって、つまり運動的なのであって。しかし少なくともあの光の演出を見るだけでも、まあ悪くはないんじゃないかと。実は「BGオンリー」パートが映像的にはすごいんじゃねえの?と。あんな風に露呈させる、というのは、間違ってもドラえもんではやらないでしょう。

W.ケントリッジ展@hiroshima city MOCA

というわけで。
ケントリッジ展、行って参りまして。
端的に言うと、非常に面白かったし、すごく示唆に富む展示会であったかと。

特にぼくみたいな、視覚文化研究をしようと思っている人(そのなかでも特に映画/アニメ)にとっては、大変興味深いものだった。なによりひたすら爆笑してた。笑えるってのは大事だと思っております。

まずひとつ注意点。普通に鑑賞しようとすると結構時間がかかる(らしい)。
入館が16時前であったため、受付のお姉さんに「時間かかる展示ですよ」と言われ、「えーと、どれくらいかかるんですかね?」「そうですね。しっかりひとつひとつを見てもらおうと思うと2時間くらいかかります」「あ、じゃあ大丈夫です。入ります」となった。まあ1時間ありゃいいや。と。十分見れるわ。
ぼくは、とりあえず芸(術)みたいなものというのは、どこで切り取っても成立し得るものが良いものだと信じているので、それは例えば北野武がいうところの、「自分の映画のどこでもいいからどっか切り取って絵にしたら、それだけで完成するってのが理想」ということで、いいもの、というのは基本的にそういうものだと思う。それだけで寓話的な理解は可能でしょう。最初から映画を見ないと分からないから、というひとは、それは映画を理解しようとしているのではなくて、単に論理を理解しようとしているだけで、運動的なメディアである映画の見方とは本質的に異質な見方であると理解した方がいい。みたいなことを思っている。なので全然、最初からひとつひとつじっくりと鑑賞するつもりはなかったので、無問題だったんだが、じっくり見たいという人もいるだろうから、その点はあれ、時間に余裕を持っていきましょう。と。

さて。
簡単な感想はこんな感じです。
以下はいろいろ考えたこと。感じたこと。
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9は8 1/2よりも本当に多いのか

という訳でNINEを見てきたわけです。
ぼくは基本的に、最近になって映画の見方、というのをはっきりと変えていて、しかしそれは最近のことであるために、未だ作品を見た後で自分の評価に自信を持てないことがある。それを踏まえて読んでください。

NINEというミュージカル映画は、どう考えてもミュージカルであるが故に成り立っている。つまりそれ以外の映画的要素というのはほとんどなくて、あるとしたら、というかぼくが感動した、と少なくとも言えるところというのは、試写室のシーンだったのだけれど、しかしそのシーンにおいても、別に語らせる必要のない台詞を語らせ、無理に説明してしまっている。あそこのシーンは、まず台詞のいらないシーンと思う。そういうところで喋らせてしまう、というのは、ちょっとなあ、と思ってしまう。見終わった後、よくわかんなかったんだよね。物語がとかじゃ勿論なくて、なにが面白かったのか。たぶん歌と踊りが大好きなぼくはそれだけでちょっとだけまあいいかな、なんて思ったりして。
だからあんまり書くことはない。じゃあ書かなきゃいいじゃんって。本当にそうなんですが。
基本的にこの映画の画面には面白いものは何も映っていない。これがもしミュージカルでなければ、あまりにも退屈だったろうと思う。一生懸命見ようとしても、特に何も映っていない画面。『かいじゅうたちのいるところ』までではないにしても、奥で何かが起こる、みたいなことは全くない。

つまりこの映画は、女優のMVを見る映画なのだ! ていうか映像なのだ! 多分。
まあそう考えると、ニコール・キッドマンお前一体何歳だよってくらいに綺麗だったり、ペネロペ・クルスはエロいし、いいと思う。豪華豪華豪華っていうのが前に出てて、だからこそ薄っぺらい。でもまあ、週末に何となく見るにはいいんじゃないか。そういうのを加味するとまあいっかな、なんて。
シカゴと比べるとこっちの方がいいと思う。一応映画の映画だから、そういう意味でもまあいいかな、なんて。

『アメリカの夜』っていうトリュフォーの映画があって、最近それを劇場で見る機会に恵まれまして、見まして、ああ、いいなあ、とか思いまして、この映画のラストみて、ああ、正反対だ、と思いました。オチが、ね。

アンナと過ごした4日間

 監督・脚本・製作:イエジー・スコリモフスキ

この映画をずーっと見ていて、本当に科白が少ないのだけれど、画面の力で引っ張られていく。これなんだと。映画を見ていて、幸せに感じるのはこれなんだと。別に科白の量で良し悪しを判断しているのではないけれど、やっぱり言葉に頼ることで失われていく力というのはあるわけで、それは分かりやすさとの距離が離れるということなのかもしれないけれど、ほら、そこはあれ、映画は宇宙なんだよっていうやつで、つまり分からないもんなんだよ世界はというのが映画にはあって、映画は安易な理解というのを受け入れないようにできているんだと思う。まあそれはいいとして。

簡単な感想など書くと、面白いし、笑えるし、画面はしっとりしてて落ち着くし、構図もがっちり決まってるし、色彩設計もちゃんと考えてあるように思える。何よりも、あの、3日目のアンナの部屋でのシーンは涙なしでは見られない。あれほどに話すことを拒み続けるような振る舞いを見せる主人公が、あんなに饒舌に、幸せそうに、明るい部屋で愛を語りかける。あの一連のシーンによってCZTERY NOCE Z ANNAという題名から想像する、4日目がもしかするとこの日なのではないかという不安を覚える。主人公の重たい口が開くとき、物語が終わろうとしているからである。

ぼくがこの映画について書きたいことは、書いておきたいことというのはひとつで、それはつまり、なぜあのラストシーンにぼくたちは衝撃を受けるのだろうか。ということである。
同じ劇場で見ていたひとが、非常に暗い顔で、「なんか暗い映画でしたね」と言っていて、ぼくとしては、いやそんなことはないだろう。斧でがんて木切るとことか、笑えたし、なによりその為に斧買ったんかい、という、どうしようもなく緊張感の抜ける演出はつまりギャグなのだし、そういうとこたくさんあったんだから、暗いのは画面で、でも画面自体も例えば院長の部屋みたいなとこでは緑色のスタンドが鮮やかに画面に乗っかっていたし、アンナの部屋のベットの上のライトも青くてきれいで明るかったし、夜のシーンが暗いのは当たり前で、その証拠に昼間のシーンでは真っ白なシーツがひらひら舞ってて明るかったけど。そんな風に思ったのだけど、でもその人が暗いと感じたのは事実なのだ。そしてそれはやはりあのラストシーンに象徴されるのではないか。
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怒る/怒られるということ

 ここ数日間、なにやら怒られたり怒られたり怒ったり怒ったことを怒られたりしてきて、いやぼくが実際怒られるのは全く構わないし、自分が悪いと思うし、怒ってもらえてありがたいとか本心から思うんだけれど、でも一個だけ。
先日、怒ることの前提が怒られる人と共有されていないと怒ったって理不尽に思うだけでしょ。ということを言われ、それは先週の土曜なのだけど、で、毎日毎日いろいろ考えて考えていて、その間に他の人から違うことを怒られて、少しそっちの方に気が行ったんだが、そっちは自分の中で結論が出、やらねばならないこともはっきりして変な言い方満足したのだ。が、やはり土曜の方のはあんまり納得できない。というより違和感がむんむんなのである。
本当はこんなところに書き散らすようなことではないのだけど、でも素直によくわかんないので書く。

ぼく個人の意見だが、といっても基本的にみんな同じだと思うのだけど、怒られてるとき、まああるいは叱られているときに、即座に、あ、これは俺が悪くて、この人は本当に良いことを言っていて、俺が怒られるのは当然です、とか思うことって実際ないのではないか。というか、そんな風に思うということは、ほとんどもう自分の中で罪悪感みたいなものが存在していて、その背中を押されたということで、つまりあんまり成長はないんじゃないのか。悪いことだと分かっていることを怒られるという方が、個人的に理不尽なのだけれど、と思うの。だってもう分かってること言われるんだもの。そんなの両方にとって時間の無駄だし、というか怒った方の自己満足で終わるんじゃない? ぼくも勿論そういうことはしてるだろうし、そういうことをしてしまわないようにしていてもしちゃうことはままあるだろうし、それは無駄なのだけど、でもまあいいんだよね。ははん、こういうことで怒ってやがる、分かってるけど、というのこそが、ぼくにとっての理不尽。だって怒られる理がないもの。いや、正確にはあるんだが、怒られる必要がない、怒られても仕方がない、意味がない、ということです。

では怒られたときに、一体何で怒っているのかと思う、「理不尽さ」はどうだろうか。これは先のことばをそのまま使うなら、前提が共有されていない場合で怒られるということ。(勿論全く理解し合えないような事を言うのであれば、そこに怒り怒られる理はない。そういうのは黙って見過ごすのがお互いのためなのだ。つーか怒ることは大体においてある種リスクを負うことだと思うから、最初からそんなことはしないほうが楽なのですけど、怒るとすれば、の話です。)
この場合をぼくは批判されたのだけど、そしてぼくもその時は、そういう気遣いも必要なのかなあと何となく思ったのだけれど、でもやっぱよくよく考えると、その種の前提が前提として両者に機能しているというのが表層的に成立していないと怒られても理不尽なだけだ、というのはおかしいと思うのですが。だって分かってること怒ることって何度も書くけど無駄じゃないの? 怒られてそのことについて思考するから成長するんだし、その成長を促すために怒る側はわざわざ怒るんじゃないのかと。怒られたときに理不尽だと思えば思うほどそのことについて思考できるチャンスが増えるわけで。だから怒られたときに理不尽に感じてくれるなら、怒ったほうは冥利に尽きるって、これぼくだけなのだろうか? その場でそうですよね、と言われるのはそれはそれでまあいいが、そういうときにはやっぱり怒ったほうは、いらんことしたなあと思うものなんじゃないのかと。
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