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  • 2011.09.21 Wednesday
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『コクリコ坂から』とティルティングの方向について

やっとのことで、時間が出来て、『コクリコ坂から』を見ることが出来た。
以下、ぼくの備忘録的なメモである。一度しか見ていないため、そして公開中にもう一度みる時間を作れそうにないため、記述はかなり未熟なものだ。
ただ、ぼくの見方を、断片的に提示しておこうと思う。


『コクリコ坂から』の最初のショットは、いつものジブリの画像イメージである。その裏で、ネジをかりかりと回す音が聞こえ、そのまま振り子時計が秒針を刻み始め、それに併せて音楽が流れる。
次のショットは、いわゆる設定ショット、エスタブリッシング・ショットである。
ここで重要なのは、ジブリのイメージに続く2つのショットが、パニングやティルティングといった、カメラの「首の」動きを伴っていることである
そしてそのパニングおよびティルティングは、それぞれ、左から右へ下から上へという動きを行っている。

ここで一応、パニングおよびティルティングについて、簡単な説明をしておきたい。
パニングとは、カメラをパンすることである。パンとはカメラそれ自体の位置を動かさずに、カメラの向きだけを、水平方向へと可動させることだ。
同様に、ティルティングとは、カメラをティルトすることであり、ティルトとは、パンの垂直ヴァージョン、つまりカメラの首を縦に振ることを意味する。

断言しよう。
本作品には、パンおよびティルトがやたらと多い。
その代わりに、固定ショット=フィックスの画面が非常に短い。
例えば、固定ショットで人物の移動を縦の構図で収めたショットは確かに頻発する。
その被写体の運動は基本的に画面の奥へと向かう運動なのだが、ここでのショットの持続時間は、長くて3秒ほどであり、極めて短いと言わざるを得ない。

そう、この映画のフィックスのショットは、ほとんど持続せず、せわしなく次のショットへと移行していくことになる。
これを娯楽作品の、しかもアニメ作品の特徴だと考えることは確かに可能だろう。
しかし、例えば『借りぐらしのアリエッティ』と比較したとき、どうだろうか。このフィックスのショットのせわしなさは、確かに強調してよいものとなるのではないか。
あるいはそれを『ポニョ』と比べても良いだろうし、宮崎駿の以前の作品と比べても良い。

フィックスのショットは、基本的に、本作において持続しない。

では比較的持続するショットとはどのようなものなのか。
それはもちろん、パンを伴うショットや、ティルトを用いたショットであろう。

繰り返して言おう。
ここで指摘しておかなければならないこと、それはパンおよびティルトの方向である。
既に述べたように、パンは左から右へ、ティルトは下から上へと動いている。
これは本作において決定的に重要だ。

そもそもこの作品はなぜ『コクリコ坂から』というタイトルなのだろう。
これは大きな疑問である。
海の住む家の名前、それは「コクリコ荘」である。なぜ「コクリコ荘から」、ではなく、『コクリコ坂から』なのか。
この作品が例えば海という少女を主人公とした、海の周辺を舞台とした作品であるにも関わらず、なぜ坂なのかという疑問は、出てきて当然のことなのではないか。
私たちはそれを問わなければならない。

もちろんこの問いに対する正解はない。
しかし問いかけは必要である。
なぜなら、その問いが新たな読みを誘発する可能性があるからだ。

ところでぼくはこの映画を見ているときに、坂を上がる人物を見ただろうか?
確かに風間は、海が肉を買いにいこうとしたとき、立ちこぎで坂を上がってきた。しかしそれはほとんど画面に捉えられていなかったのではないか。
海が、魚屋でカレイを買おうとし、しかし討論集会へと向かうとき、私たちは彼女が坂を上がるところを目にしたのだろうか。

これは厳密に見ていないので、断言することは出来ない。けれど人物たちは、特に海と風間は、坂を上る様子をほとんど描かれないと言ってよい。
彼らはひたすら坂を下っていくのだ。

だとすれば、カメラのティルトは、すなわち下から上へというカメラの運動は、彼らの運動とは対照的な動きとなっていると言えるかもしれない。
ぼくたちの視覚は下から上へと擬似的に坂を上っていく。

とすれば、これは一種の異化かもしれない、と思ってみたりしよう。
つまりぼくたちは、海や風間と、同一化を阻害されているのだ。
カメラの動きによって。

しかしこのカメラの動きは、常に下から上へと動いているわけではない。
ある時点から、唐突に、逆の動きを繰り返し始めるのである。
つまりそれは、風間が海の家にやってきて、海の父の写真を見た後から、である。

そしてそれ以降、最後のショットまで、それまでのパンの多さからは比較にならないほどに、カメラの水平方向への首振りは見られなくなり、ティルトは上から下へという動きを反復する。
ここから、物語は明るさを失い始める。そして近親相姦という重いテーマへと踏み込んでいくのである。

これが基本的なぼくのこの映画の見方である。
すなわち、カメラの首振りの方向、とくに上下の運動が、物語(プロット)の展開と結びつき、まとめあげられているのである。

クライマックスのシーンで、彼らは父の友人である船乗りと話をする。
なぜ。
そう、なぜ、と問うておこう。
なぜ彼と会わなければならなかったのか。
それは彼らを「上らせる」ためだったのではないだろうか。

この映画の感動的なシーンのひとつとして、海が船に飛び移るときの、あの、風間との抱擁が挙げられるだろう。
しかし本当に感動的なのはそこではないのだ。
そこではなくて、そのあと、何事もなかったように船の階段を上がっていく、あのなんでもないシーンなのだ。

ここで私たちは、再び異化をつきつけられる。
すなわち、カメラの上から下へという運動と逆の、下から上へという上昇。
そのあとのティルトの動きは、ご自分の目で確かめて頂きたいと思う。



ところで、コクリコ荘は一体「坂」のどこに位置しているのだろうか。
これが非常に疑問であるのだ。
海が学校へと向かうとき、彼女は坂を「上っている」ように見える。なぜなら下校時、彼女は坂を「下っている」からだ。
しかし、自転車に乗った風間はどこから現れたのか。
そう。坂の下からなのである。
こうしてコクリコ荘は坂の「上」でもなく、かといって「下」でもない、決定不可能な位置に身を置くこととなる。






さて、ここまでがだいたいのぼくの「思いつき」なわけだけれど、全体的な感想としては、ぼくは本作よりも断然『アリエッティ』の方を支持する。
その一番の理由は、やはり、『コクリコ坂』のせわしなさにある。
この作品には、緩急というものがまるで感じられなかった。
もちろん物語上の緩急はある。ぼくが言いたいのは、画面上の緩急である。

じっくりと見せた方がいいのではないか、とおもうショットが、あっさりと消えていく画面の連鎖を見ていると、これでいいのかなあと、ただただ思ったわけです。

あと、『アリエッティ』と比べて、ロマンスの描き方が拙い。
『アリエッティ』では、視線という装置を巧みに使いながら、映画史における、見られる女性というコードを転覆しつつ、積極的に見ようとするアリエッティと少年の、視線の交わらなさを、二人のロマンスに上手く転奏させていたのだった。
けれど『コクリコ坂』は、意味的な要素(=異母兄弟か否か)がそのドラマの掛け金となっていて、それはやはり、『アリエッティ』の映画的な面白さとは比べ物にならないと思う。

総じて、まあまあな作品だった。佳作だと思う。

ぼくは『アリエッティ』の監督の新作が見たい。
宮崎駿のよりも。

謝辞。そして『ソルト』。

 ニクロさん、という方がいて。
『ニクロのクレイアニメへようこそ』というサイト、http://www2.ocn.ne.jp/~nikuro/sub13.html
このサイトでアリエッティの論文を書いてらっしゃる方なのだけど。


ぼくのアリエッティの批評と言っていいのかどうなのかいやだめだろうそうだろうな記事にコメントしてくださっていた。
本当にありがたい。感謝します。

まずお返事が遅れたこと、お詫びします。
メールを送ろうかと思ったんですが、それもちょっと野暮なんじゃないか、と思ったので。こんな形で。
まあなんていうか、ぼくは本当に映画を見てきていないと断言できるようなクソ野郎なのであります。映画を見始めたのは、それこそここ数年であって、それも大学に入ってから数年たってしまった後でして、更に言えば山口と言う辺鄙すぎる田舎にいるため、ほとんど映画をみること叶わない、という劣悪な環境で、まあなんとか映画の「訓練」をしているわけであります。
けどまあ、ぼくが書いてるようなこと、というのは、ほとんど理解されないのだと、最近強く感じていて、ちょっと絶望しかけていた。というよりも、例えばこうしてネットで書く、という行為が、それもホームページを持たずにブログで書く、という、そのことがあまりにも無力に思えてしまっていたのです。だから、アリエッティに関しても、もう一度見に行ったわけで、そして修正点とかも洗い出したわけですが、なんか書く気にならず、それはこんなこと書いても理解してくれる人なんていない、とふてていたからなわけです。
例えばアリエッティの主観ショットの多さは、やはり特筆すべきものがある。特に最初の「借り」の際には、異常なほどであり、それは盗み見られることを強く意識させるように作ってある、ということでしょう。あるいは暗転。計2回ある暗転は、いずれもアリエッティの瞼と連動しています。つまりアリエッティが目をつぶり、見ることを止めたときに、それに伴って画面は真っ黒になる。更に、ダンゴムシ同士で見詰め合うショットをそれとなく入れている。明らかにどこを見ているのか分からないような目の「絵」で。
あるいは、「網戸」にひっかかったカラスのシーン。ここでアリエッティは明らかに盗み見ている。やはり網戸は完全にマクガフィンじゃないか。そう思うわけです。手紙も、網戸も、アリエッティに見させるために機能している。それだけのためです。

だから手紙に書かれた内容について云々することに意味はない。ヒッチコックの鞄の中身を考えるくらいに。それはゲームとしては楽しいかもしれませんが、全く映画的ではないでしょう。

ニクロさんのように、きちんとした文章で公開していないのにも関わらず、視線の映画だという論旨を汲み取っていただけてありがたいです。
この映画は視線の映画なのです。それ以外に語るところがないくらいに。
テーマが一貫している。
だからこそ素晴らしいと思います。


長くなってしまいましたが、ニクロさんのコメントによって、ぼくも書くことを止めないでいようと思いました。これは断じて自己満足ではないのだと。作品を尊重する態度なのだと。
だからこそ共感されることはないかもしれない。でも止めてはいけない。

背中を押していただけた気持ちです。ありがとうございました。





さて。
視線の問題、というのはおそらく非常に映画的な問題だと思います。
8月1日に『ソルト』という映画を見に行って、そのことは簡単にtwitterにも書いたのですが、ここでもう一度書いておこうと思います。今日2回目を見に行ってきたので。やっと。

問題も多い映画だと思いますが、こういう「褒めにくい」映画を褒める必要性、というものに駆られてみようかなと。

この映画も非常に主観ショットが多い映画です。
しかし重要な点は、それがなぜ主観ショットだと言えそうなのか、ということであり、それはすべて、「人物がカメラをまっすぐ見つめている」ショットだからだ、ということになります。問題はその主観性にあるわけではない。むしろこの、「カメラとの対峙」にこそその主眼が置かれている。
こうして考えてみると、この映画、画面が最初からラストどうなるのかを予見している。アンジェリーナ・ジョリーがカメラに向き合っているショット、というのは、あの同僚の白人とか、オルロフとかとの切り返しには一切出てこない。反面、ピーボディとの切り返しにはロシアのスパイだと疑われ始めるときから正面からのショットが出てきている。これは何なのか。同様に、夫との切り返しショットでも、アンジーのカメラへの目線は出てくる。最後の同僚との切り返しではどうか。もちろんないのです。これが何を意味するのかは、映画を見た方なら誰でも分かるでしょう。

アクションシーンの雑さ、みたいなものは、だれにでも指摘できることなわけで、むしろ映画的に褒める部分は、例えば逆さのチェアーの足を意味もなく触れて回転させたりするショットや、ほこりの白さを際立てるために黒髪に染めること。その染めるという行為をするために金髪にしておくこと。そして持続を作り出すために、最も分かりやすい視覚的特徴である、顔の一部と考えていい髪形を、任務ごとに変えるということ。こういった点を見ると、アクションシーンの汚さは、それを補って余りあるのではないか。なんて思ったりするわけです。

ね。

『借りぐらしのアリエッティ』〜揺れる瞳という表現〜(仮)

 『借りぐらしのアリエッティ』見てきました。
一応もう一度見てきてちゃんと批評めいた事は書こうと思っていますが、しかしこの映画本当に素晴らしいもので、もう一回見る前に書いておきたいという衝動が押さえきれなくなり、こうしてキーボードを打っている訳です。

巷の評判が嫌でも耳に入ってくる現代ですが、この映画はかなり悪い評判ばかり聞いており、しかしポニョのときもそうだった。あの時もさんざんみんなけなしたりしてたくせに今となってはどうだよ、褒めちゃう。ぼくの耳に入ってくるものがすべてではありませんが、大体世間というのはそういう風に動いているようで、みんなが良かった、良かった、という作品は基本的に良いものではなく、かえって公開当初は評判の悪かったものが再評価されたりするものでしょう。一般論として。
なのでぼくは非常に期待してこの映画を見に行ったのでした。
そしてその期待を上回ってくれたのです。この映画。

さて。
とりあえず今回は(仮)ということなので、詳細な分析は行いません。基本的にしっかりと批評しようと思ったら、少なくとも2回は作品を見なければ出来ない でしょう。でなければ当然粗が出てきます。映画は時間メディアであり運動メディアであるため、途中メモする、という反ー運動的な行為をぼくは行いません し、なにより全体と集合、そして部分という関係性をしっかりともって見るためには、一度では把握できないのは当然であり、ぱぱっとみて終いならばよいので すが、抜け落ちてしまう部分が出てきてしまうことに確実になります。そのため今回は、気になった点をざっと書いておこうと思います。
間違っても、見るべきところがないような作品ではない、というぼく個人の主張です。



(以下ネタばれあり)
続きを読む >>

劇場版 銀魂 新訳紅桜篇

 見てきました。
とりあえずぼくは銀魂、というアニメもマンガも熱心に見ている方ではなく、キッズステーションとかでやってたら何となく見る、程度ですので、この紅桜篇もちゃんと通して見たことはなかったわけで、まあそういうとこを加味して読んでもらえるとうれしいです。

さて。早速ですが、以下のような映画評が「公」的なサイトで掲載されています。

http://www.cinemaonline.jp/review/kou/11885.html

このサイトの趣旨というのは、次のようなものであるとも書いてあります。

「毎週封切られる膨大な数の映画たちから何を選ぶか。迷ったら、このページをチェックしてください。
どんな映画にも必ずひとつはあるイイ所を見つけだすのが、私の得意技。
女性ならではの視点で斬る映画評は、きっとお役に立つはずです。」

はいはいはいなるほどなるほど。いいところを見つけ出すわけです。また、映画を見る前に見る用のサイトであるということが分かります。そのため、おそらくネタバレには相当に注意して書いているのでしょう。だって中身がまるでないもの。
この映画についてこの批評で書かれていることは次のようなものです。
・映画の始まりと終わりがサイコーに笑えて楽しい
・オープニングはBGMのみの静止画
・大迫力のバトルが終わってのエンディングは、ニセ予告編が登場し、それに異議を唱える原作のキャラたちがワラワラと出てきて収拾がつかないほどの大騒ぎ
まあ以上の3点でしょう。うち1点(オープニング〜)については、「BGMのみ」ではなく「BGのみ」なわけで、そう本編でも言っているのですが、どっちでもいいだろう?ということなのでしょう。間違っても「バックグラウンドミュジックのみ」ではないと思うのですが、わかるだろう、ということなのでしょうか。まあこれだけしか書いていないにもかかわらずこんな粗がある、というのはきちんと見ていない、ということでしょう。
映画評としてどうかとおもうのは、この評において映画についての話がこれだけしかないにもかかわらず、映画以外のことに関してだらだらと語っていることです。いいところを見つけるのはいいのですが、いいところ、というのはそんなに適当なものでいいのでしょうか。映画におけるいいところを見つけるのではないのかと。

「映画のツボや隠れた見所にちゃんと気付く男性を、女性は見逃しません」

だそうですので、つまり「映画の始まりと終わりがサイコーに笑えて楽しい」というのが映画のツボであるとするのならば、ここで笑え、ということですね。つまりコンテクストマーカーとしての批評というわけです。
あとひとつだけ、最も問題だと思うことは、なぜ60点なのか、という、その根拠がどこにも書かれていないことです。加点法なのか減点法なのか知りませんが、残りの40点というのは何なのか。

まあ、そんなことはいいとして。

ぼくの話をしますが、ぼくはこの映画の中で笑えたところ、というのは2カ所しかありませんでした。大雑把に言ってしまえば、それはオープニングとエンディングなのですが、ここには笑いにおけるもっとも基本的な「繰り返し」と「違い」があります。つまり「差異」と「反復」です。オープニングのあの、何度も出現する「WB」のくだり。あれは完全に映画「内」の反復でしょう。批評的な機能云々はここでは置いておくとして、3度繰り返されるあの映像は、「BGオンリー」とされるアヴァンパートとは対比的に良く動きます。
さて、ここで先ほどから何度も使用している「BGオンリー」ですが、これはつまり「バックグラウンド=背景オンリー」ということです。つまり画面上には「背景」しかない、ということなわけです。しかしこれは本当なのでしょうか。よくよく画面を見てみると、画面左上から陽の光が差し込んでいるわけです。そしてこれは確実に動いており、なおかつその光は時間の経過とともに伸びています。これはどう考えても「BGオンリー」ではないわけです。確実に「中景」あるいは「前景/近景」であって、ふたつのレイヤーが存在している、ということになります。これのどこが差異なのか、というと、アニメ版のこのような演出の際、すべてを確認している訳ではないので見落としもあるかもしれませんが、確実に画面には「背景」しかないのです。絶対に陽の光などは差し込んでいません。これがアニメ版との「差異」である、というわけであり、この演出には映画全体に通奏する「主題」が隠されているわけです。普段行わない演出を、映画版では「あえて」使用しているのですから、これは故意だと考えられるわけです。そして案の定、というべきか、この作品全体にはひとつ大きな「光」というテーマが存在しています。このテーマをアヴァン部分で視覚的に露呈させてしまうところにこの映画の一番の「ツボ」があるといってもいいでしょう。実際最後あたりのショットでも陽の光が動いています。そしてそれは人物よりも「前」にあるわけで、陽の光の存在するレイヤーは「最前景」であることがわかるわけです。他にも本編中に万屋の窓から光が差し込む演出、あるいは逆光の演出が多用されます。
あるいはニセ予告ですが、アニメ版を見てみると、第2期の柳生篇が始まる前の回において、「映画ウソ予告」があるわけです。そしてこれは「紅桜篇」の偽映画化企画であるということがわかるわけですが、このニセ予告がアニメ版の「差異と反復」であり、ウソであるということを「特報」というテロップの時点で示しつつも、しかし続編が本当に製作されるかもしれないという、微妙なギャグであって、これも同じくアニメ版との「反復」であると考えることも出来るでしょう。

これがぼくの考えるこの映画の「ツボ」なわけですが、だからといってこの映画が手放しに褒められるものではありません。
まず台詞の多さ。原作のマンガはこれを売りにしているところもありますが、映像作品にする際にはこのまましていい、というわけではありません。マンガにおいては台詞すらも「画面」ですが、映画においては違います。原作通りにして、原作と同じだという安心を与えたいのかもしれませんが、そんなものは糞の役にも立たないと、ぼくは言うほかありません。映画にするのであれば、映画として成立させてほしかった。これが最も大きな不満です。
あと、歌をクライマックスに使用する方法。これはかなりベタで、容易に感動へ向かわせることが出来るのですが、出来るならばそんな安易な方法は取ってほしくなかったという気持ちです。しかしまあ、それは特撮/アニメ史的には正当な文脈でしょうから、そこまで求めるのは酷な気がします。

(追記)
原作読んでないと分かんない、アニメ版見てないと分かんない、という感想をなんか目にするのですが、別にそんなことないだろうと思います。それこそ「国民的アニメ」においても、キャラクターの設定などは一切説明されないこともある訳で、それがなぜ分かるか、というと、空気としか言いようがないでしょう。「国民的」と冠することで、そのコンテクストがある種コード化されるわけです。つまり、お約束化。そういうことを強制して成立するものが国民的アニメであるわけでしょう。アニメの映画化については、そこまで面白いと思えませんが、しかし訳が分からないということはないはず。問題なのは、画面が本当に貧乏なこと。これは作画云々とか言う訳ではなくて、カット割りとかですが、しかし、そういった点に置いて、それこそ「国民的」アニメとは視覚的に異質なわけで、その点はまあいいじゃんとぼくなんかは思います。なによりあんなに分かりやすいプロットで、分かんない、というのは、実はむしろ映画的で豊かなんじゃないかと思う訳です。で、ぼくはそんなことは全然感じないので、あんまり面白くないと言ってるのです。ほんと、あれだけ説明されて分かんないってんなら、理解力が極度にないか、運動的で豊かである=物語的でなく断片的ということなわけです。どう考えても後者みたいな良い作品ではないのですから。
あと映像的に面白くない、すごくないというのもあるけれど、ぼくはまあ、まずまずすごいと思うんですが。その点については。見てるところが違うのかもしれないですが。一体どんなアニメが「日本」のアニメ的なすごさを持っているのかと。ジブリかと。ジブリはそりゃすごいですが、この映画とは完全に方向を異としていて、つまり物語的ではないのだと。だからすごいんであって、つまり運動的なのであって。しかし少なくともあの光の演出を見るだけでも、まあ悪くはないんじゃないかと。実は「BGオンリー」パートが映像的にはすごいんじゃねえの?と。あんな風に露呈させる、というのは、間違ってもドラえもんではやらないでしょう。

9は8 1/2よりも本当に多いのか

という訳でNINEを見てきたわけです。
ぼくは基本的に、最近になって映画の見方、というのをはっきりと変えていて、しかしそれは最近のことであるために、未だ作品を見た後で自分の評価に自信を持てないことがある。それを踏まえて読んでください。

NINEというミュージカル映画は、どう考えてもミュージカルであるが故に成り立っている。つまりそれ以外の映画的要素というのはほとんどなくて、あるとしたら、というかぼくが感動した、と少なくとも言えるところというのは、試写室のシーンだったのだけれど、しかしそのシーンにおいても、別に語らせる必要のない台詞を語らせ、無理に説明してしまっている。あそこのシーンは、まず台詞のいらないシーンと思う。そういうところで喋らせてしまう、というのは、ちょっとなあ、と思ってしまう。見終わった後、よくわかんなかったんだよね。物語がとかじゃ勿論なくて、なにが面白かったのか。たぶん歌と踊りが大好きなぼくはそれだけでちょっとだけまあいいかな、なんて思ったりして。
だからあんまり書くことはない。じゃあ書かなきゃいいじゃんって。本当にそうなんですが。
基本的にこの映画の画面には面白いものは何も映っていない。これがもしミュージカルでなければ、あまりにも退屈だったろうと思う。一生懸命見ようとしても、特に何も映っていない画面。『かいじゅうたちのいるところ』までではないにしても、奥で何かが起こる、みたいなことは全くない。

つまりこの映画は、女優のMVを見る映画なのだ! ていうか映像なのだ! 多分。
まあそう考えると、ニコール・キッドマンお前一体何歳だよってくらいに綺麗だったり、ペネロペ・クルスはエロいし、いいと思う。豪華豪華豪華っていうのが前に出てて、だからこそ薄っぺらい。でもまあ、週末に何となく見るにはいいんじゃないか。そういうのを加味するとまあいっかな、なんて。
シカゴと比べるとこっちの方がいいと思う。一応映画の映画だから、そういう意味でもまあいいかな、なんて。

『アメリカの夜』っていうトリュフォーの映画があって、最近それを劇場で見る機会に恵まれまして、見まして、ああ、いいなあ、とか思いまして、この映画のラストみて、ああ、正反対だ、と思いました。オチが、ね。

アンナと過ごした4日間

 監督・脚本・製作:イエジー・スコリモフスキ

この映画をずーっと見ていて、本当に科白が少ないのだけれど、画面の力で引っ張られていく。これなんだと。映画を見ていて、幸せに感じるのはこれなんだと。別に科白の量で良し悪しを判断しているのではないけれど、やっぱり言葉に頼ることで失われていく力というのはあるわけで、それは分かりやすさとの距離が離れるということなのかもしれないけれど、ほら、そこはあれ、映画は宇宙なんだよっていうやつで、つまり分からないもんなんだよ世界はというのが映画にはあって、映画は安易な理解というのを受け入れないようにできているんだと思う。まあそれはいいとして。

簡単な感想など書くと、面白いし、笑えるし、画面はしっとりしてて落ち着くし、構図もがっちり決まってるし、色彩設計もちゃんと考えてあるように思える。何よりも、あの、3日目のアンナの部屋でのシーンは涙なしでは見られない。あれほどに話すことを拒み続けるような振る舞いを見せる主人公が、あんなに饒舌に、幸せそうに、明るい部屋で愛を語りかける。あの一連のシーンによってCZTERY NOCE Z ANNAという題名から想像する、4日目がもしかするとこの日なのではないかという不安を覚える。主人公の重たい口が開くとき、物語が終わろうとしているからである。

ぼくがこの映画について書きたいことは、書いておきたいことというのはひとつで、それはつまり、なぜあのラストシーンにぼくたちは衝撃を受けるのだろうか。ということである。
同じ劇場で見ていたひとが、非常に暗い顔で、「なんか暗い映画でしたね」と言っていて、ぼくとしては、いやそんなことはないだろう。斧でがんて木切るとことか、笑えたし、なによりその為に斧買ったんかい、という、どうしようもなく緊張感の抜ける演出はつまりギャグなのだし、そういうとこたくさんあったんだから、暗いのは画面で、でも画面自体も例えば院長の部屋みたいなとこでは緑色のスタンドが鮮やかに画面に乗っかっていたし、アンナの部屋のベットの上のライトも青くてきれいで明るかったし、夜のシーンが暗いのは当たり前で、その証拠に昼間のシーンでは真っ白なシーツがひらひら舞ってて明るかったけど。そんな風に思ったのだけど、でもその人が暗いと感じたのは事実なのだ。そしてそれはやはりあのラストシーンに象徴されるのではないか。
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