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  • 2011.09.21 Wednesday
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『あの花』、あるいは長井龍雪についての覚書

長井龍雪について考えてる。

きっかけは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)の視聴だったわけだが。まあ単純に面白いから。

で。
集中的に『とらドラ!』と『とある科学の超電磁砲』を見た。
究極的に言えばこの監督の作品は、音を消しても完全に物語が理解できる。画面で物語が語れちゃってる。だから逆に言えば喋り過ぎなんだけど、まあこれはTVアニメの宿命みたいなもんだから、ある程度は仕方ない。画面がよければとりあえずそれでいいんだよ。

ところで話は変わるのだけれど、今期注目されている作品のなかに『花咲くいろは』(以下『いろは』)という作品がある。あらすじとかは調べればすぐ分かることなんで書かない。とりあえず4話まで見た感じでは、ぼくのこのアニメに対する評価は低くならざるをえない。なぜなら、すべてが辻褄合わせに向かっている。だから話がだるい。
これは予想が出来るとか出来ないとかそういうことではない。物語のプロットの種類は決まってるから、そういうのは当たり前と言うか、ある程度物語を消費すればわかることで、そんなことは全く問題ではないのだ。
そうではなくて、問題なのはすべてがあまりにもあっさりと辻褄があっちゃうってこと。

この辺を上手く説明できないのは、ぼくの力不足なのだが、それが如実に現れているのは、OP映像である。

http://www.youtube.com/v/zANnc4AGMP0

このOP、途中までは素晴らしいのだけれど、前述したような危険に満ち満ちている。終盤までは非常に躍動的で「運動的」とも言えそうな素晴らしい映像が続くのだけれど、その最も顕著なものが「走ること」だ。
登場人物2人がただひたすら走っている。時にこけそうになったりしながらも、ひたすら走る。この動きは感動的なまでに生き生きとしている。
しかし、OPのラストで、彼女たちは電車に間に合う。これによりこの運動があらすじ化される。すなわち、彼女たちは電車に乗り遅れそうだったので走っていました。そして間に合いました。というような形に。

結末によってすべてが回収されてしまい、ただ単純に「走ること」の魅力が失われてしまう。重要なのは「走ること」ではなくて、電車に間に合った、という物語性に転化してしまうように思われるのだ。

さて、なぜここで『いろは』を引き合いに出したのか。それはもうお分かりだと思うけれど、つまり長井龍雪のOP映像におけるデクパージュにはこのようなあらすじ的な、結果に収束されてしまうような運動がない。運動の意味への従属が存在しない。

たとえば『とらドラ!』のOP。

http://www.youtube.com/v/5BNF75bsafk

ここでは先のように考えるのであれば、「歩くこと」がその運動そのものとして輝いているかどうかが重要なのだが、どうだろう。少なくとも安易な物語性に「歩くこと」は回収されていない。加えて魅力的なのは、例えばクラスメイトが雑談をしているとき、画面の外を見るという奇妙なことまでが生じている。彼らが何を見ているのかは明示されない。ここでは話をやめて視線を他の方向に向けるということ〈しか〉起きていない。というより、こう説明するしかない。画面内だけで充足させることを避けようとしているかのようにも見える(このあたりの画面外の想像力の問題については、黒沢清著『黒沢清、21世紀の映画を語る』に詳しい)。
(また、更によく分からないのが1ショット目である。ここではかなり複雑なことが起きているのだけれど、とりあえずあのカメラのなんとも形容しようのない不思議な動きは一体なんなのか。)

もうひとつ。『超電磁砲』のOP。

http://www.youtube.com/v/evrUU-CT1TM

ここでも「走ること」は結末に回収されない。一体なぜ走っているのかよく分からないが、けれど走っている動きそれ自体の魅力をそのまま見せようという意志が感じられる。これは2期のOPに関しても同様である。
それ以上に興味深いのは、サビに入ったときの動きの抑制っぷりであるけれど、これはちょっと別の話なので置いとく。
(『超電磁砲』に関しては、本編中興味深い現象が「風」なのだけれど、これはまだまとまったものとして自分のなかに出てないのでアイデアとして書いておくことにする。例えば画面に風車が出てくるときは、必ず風車は回転している。これは風車がどんなに後景に小さくおさめられていても絶対に変わらない。一方雲は動くときと動かないときとがある。しかし単に後景だから動かないのだ、という安易な考えは捨てなければならないのである。なぜなら何かの後景に雲が捉えられていたとしても、雲が動くショットというのが作品中幾度も登場するからである。)

日常というのは全く意味をもっていない。少なくとも期待するような物語はない。
『とらドラ!』、『超電磁砲』には勿論物語があるが、それ以上になんのことはない日常が多く描かれ、そういったときにこそ絵はぬるぬる動く。日常の、「物語」という論理的な認識で捉えられない魅力を描こうとしている。

(まあ、ただ、例えば鈴木卓爾監督の『ゲゲゲの女房』なんかは、その意味で他を圧倒している。日常における細部の豊かさを露呈すること。それは実写でも難しいけれど、アニメだともっと難しいのだから、『ゲゲゲ』と比べるのはきつい)

では『あの花』はどうなのだろうか。

http://www.youtube.com/v/IGPftDyVlTc

これがOP。いろいろ考えることはあるけど、やっぱり魅力的である。ただ、本編と関係なくこれを見た時、最後のを収束とみるべきかどうか怪しい所。それよりもぼくは長井龍雪が別の次元に入っていったという見方をしたい。すなわち、ドゥルーズ的に言うならば、「運動イメージから時間イメージへ」。この辺はちょっと気力があるときに集中的に考えたい。

で、もっと素晴らしいのはED。

http://www.youtube.com/v/ZPcPPZVGpnU

これほんとすごくて、感動しちゃうんだけど、まあ勿論ここで大事なのは花びらの下降→上昇→下降という運動なんだが、これもOP同様に「時間イメージ」的だとぼくは思う。
(ぼくらの世代からすればこのED曲は青少年時代に腐るほどTVで流れていた曲で、まあノスタルジックな曲なんだけれど、それとこの花びらの動きとはかなり密接に関係してるんじゃないかとか思うんですね。)

もちろん本編でも語りたいことはある。
彼らがこれから「ことば」ではなく「からだ」、あるいは「動き」によって和解していくだろうことは2話まで見ただけで想像に難くない。『とらドラ!』における殴り合いのように。けれど『とらドラ!』はそれを「ことば」でもやってしまっていた。繰り返しになるがそれがTVアニメのメディア的特性であることは否定できない。しかし『あの花』2話では全くもって「ことば」で分かりあおうとしていないではないか。
そもそも1話でも2話でもヒロインの芽衣子がなぜ人や物に触れるのか、なぜ肉を食らうのか、風呂に入るのかといった疑問があるようだが、これはそういった志向によってもたらされたものであるのではないか。だからこういった所に辻褄合わせを求め、それが解消されないから作品的にダメ、みたいなことは何の意味もない。「幽霊なんていない」と言うことが何の意味もないように。だからゴーストである芽衣子は、自分の家に帰ったとき机にぶつかり水をこぼす。肉をおいしそうに食べる。そういった「からだ」の動きを見ることで、たとえば主人公は動かされていくのである。そしてそれに呼応するように、かつての動きを覚えている主人公の「からだ」を媒介にして他の人間の「からだ」も影響されていく。


ドイツ文学者の丘沢静也は最近出版された『ツァラトゥストラ』(光文社古典新訳文庫)の解説のなかで、

Seit ich den Leib besser kenne, ist mir der Geist nur noch gleichsam Geist;

という部分をつぎのように訳している。

《からだ(傍点)と親しくなってから、俺には精神(ガイスト)なんて、幽霊(ガイスト)みたいなものにすぎないと思える》(上p.314。なお、本文中の記述はp.265)

こういうところにニーチェが潜んでいる。
とか言ってみる。冗談だが。半分。


みたいなことを考えつつ。

ちゃんと書こうと思ったら時間がかかるのでアイデアスケッチ的に。
しかしアニメも面白いのあるんだなあと最近しみじみ感じる。数はすっくないけど。


(追記)
『とらドラ!』では川嶋亜美が一番良いと思うんだよね。すごく人間的でいい。最後の方はただのいい人になってしまって残念だったけれど、ずっと主人公がこいつと付き合って終わりってのはバカみたいだし非難轟々だろうけれど変にリアルで面白いだろうな、とか思って見てた。リアルだからいいとかそういうことが言いたいわけではないというかリアルなわけなんてねーだろアニメなんだから、というのは前提として。

(追記2)
ちなみに本編に言及をあまりしなかったのは意図的なもの。ここでは長井龍雪について語りたいという欲望があった。そのため彼がコンテを描いたopの分析だけを書いたのです。
アニメってのは共同作業の結果出てくるものだから、単純に監督や脚本家やキャラクターデザイナーやプロデューサーや...といった1人の作家に所属させることは出来ない。当たり前だけど。
まあ戦略としてそういう立場をとることもできるけどそういうことはする気がないので。

(補足)
誤解されそうなので書いておくがべつに『いろは』がまっったくダメだとか言いたいわけではない。比較的面白い作品だと思う。ただ引き合いに出しただけ。
ただまあ、少なくとも第4話は退屈だったというほかない。


私がなぜ、『Angel Beats!』の視聴を第1話で辞めるに至ったか。

なにやら巷で話題の『Angel Beats!』というアニメがあって、ぼくは一応第1話だけ見たのですけれども、なんとも別に新しくも何ともなく、加えて『けいおん!!』という神アニメが同時期に放送しているという事実も有り、切ったのですが、twitterのTLで流れてくる記事や議論など何となく見てみると、擁護/支持派も批判派も、特にきちんとした主張をしておらず、また批判をすると、「なぜ見るのか」などというどうしようもない反論を加えるという始末であったりするようで、少なくともぼくが見て面白い意見など皆目ないので、余興になぜぼくがこのアニメを見る事を辞めたのか、というのを、できるだけ具体的に記述したいと考えました。特にぼくのこの記事が誰かに有益になるかは分かりませんが、しかし、ぼくという個人の主張の根拠にはなるでしょう。加えて感情的な反論というものの抑制にもなるのではないかと考えています。
言うなれば以下の記述は、ぼくが『Angel Beats!』を評価しないという、その主張の背景でしかないかもしれません。

まず、ぼくは物語的な見地から分析を行いません。実際この物語を第1話しか見ていないぼくには、物語というものの分析が出来るわけがないでしょう。ぼくは形式主義者である、というのが以下の議論の前提です。もちろん、物語と形式は不可分なものであることは承知ですが、あくまで今回は形式(ショット)の分析を行いたいと考えています。
またぼくはあんまり論理的に文章を書くのが上手くないので、少々断片的な記述になってしまうかもしれません。申し訳有りませんが、そのあたりはご承知ください。

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