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  • 2011.09.21 Wednesday
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アンナと過ごした4日間

 監督・脚本・製作:イエジー・スコリモフスキ

この映画をずーっと見ていて、本当に科白が少ないのだけれど、画面の力で引っ張られていく。これなんだと。映画を見ていて、幸せに感じるのはこれなんだと。別に科白の量で良し悪しを判断しているのではないけれど、やっぱり言葉に頼ることで失われていく力というのはあるわけで、それは分かりやすさとの距離が離れるということなのかもしれないけれど、ほら、そこはあれ、映画は宇宙なんだよっていうやつで、つまり分からないもんなんだよ世界はというのが映画にはあって、映画は安易な理解というのを受け入れないようにできているんだと思う。まあそれはいいとして。

簡単な感想など書くと、面白いし、笑えるし、画面はしっとりしてて落ち着くし、構図もがっちり決まってるし、色彩設計もちゃんと考えてあるように思える。何よりも、あの、3日目のアンナの部屋でのシーンは涙なしでは見られない。あれほどに話すことを拒み続けるような振る舞いを見せる主人公が、あんなに饒舌に、幸せそうに、明るい部屋で愛を語りかける。あの一連のシーンによってCZTERY NOCE Z ANNAという題名から想像する、4日目がもしかするとこの日なのではないかという不安を覚える。主人公の重たい口が開くとき、物語が終わろうとしているからである。

ぼくがこの映画について書きたいことは、書いておきたいことというのはひとつで、それはつまり、なぜあのラストシーンにぼくたちは衝撃を受けるのだろうか。ということである。
同じ劇場で見ていたひとが、非常に暗い顔で、「なんか暗い映画でしたね」と言っていて、ぼくとしては、いやそんなことはないだろう。斧でがんて木切るとことか、笑えたし、なによりその為に斧買ったんかい、という、どうしようもなく緊張感の抜ける演出はつまりギャグなのだし、そういうとこたくさんあったんだから、暗いのは画面で、でも画面自体も例えば院長の部屋みたいなとこでは緑色のスタンドが鮮やかに画面に乗っかっていたし、アンナの部屋のベットの上のライトも青くてきれいで明るかったし、夜のシーンが暗いのは当たり前で、その証拠に昼間のシーンでは真っ白なシーツがひらひら舞ってて明るかったけど。そんな風に思ったのだけど、でもその人が暗いと感じたのは事実なのだ。そしてそれはやはりあのラストシーンに象徴されるのではないか。
 (以下ネタバレ含む)

この映画のラストシーンは、拘留されていた主人公が自分の家に帰って、新しく設置していた窓から、いつも見ていたアンナの部屋が見えるはずだったのに見えず、玄関から入った彼はそのままその大きな窓を通り抜けて、外に出る。カメラは彼をほぼ正面から捕らえているが、彼がカメラの向こうの何かを見ながら歩くのにあわせてパンすると、そこには彼が捕まるまでは存在していなかったはずの壁が、おおきな壁が作られていて、その前で立ちすくんでいる彼をカメラは撮り続け、そしてそのまま暗転する。この救いのないシーンを見て、暗い話だ、と思うのは、まず普通の感性であると思う。

しかしよく考えてみると、いくらそこに大きな壁があったにせよ、それはそこまで大きな障害にはなりえない。最悪登ればいいのだ。よじ登れば向こう側へいける。監視の目があるかないかはわからないが、恐らくないのだろうし、壁の向こうが別世界になっているわけでもないし、アンナが引っ越したわけでもない。ただそこに壁ができただけである。しかし主人公も、そして恐らく多くの観客も、この壁に絶望を覚えるのである。これは一体どういうことなのか?

先に結論を書いてしまうと、この絶望は、「奥が見えないこと」、「奥がないこと」への絶望、あるいは不安なのだ。この作品は、かなり奥を大事にしている。例えば最初の方で、初めてアンナが画面に出てくるとき、カメラはゆっくりと手前に向かって動く。すると主人公がアンナの姿を見ていることが分かる。このとき、アンナは画面の奥にいる。そのままとことことアンナは歩いていくのだが、主人公が動き始めるまで、そのフレーミングは変化しない。にもかかわらず、アンナの姿はカメラが動くまで、つまり主人公が動き始めるまでフレームの奥できっちり捉えられているのである。アンナは確実にフレームの外側に消えてもおかしくないフレームのはしっこのぎりぎりのところを歩き続ける。こういったカメラワークはなんとなくできるものではない。
こういったシーンは他にもある。空の壜を作るために主人公はスーパーみたいなところに買い物に行くのだが、そのときも主人公は画面の奥を気にしていて、そこにはアンナがいる。病院からかなりはなれたところをすたすたと歩いている主人公が、やはり画面の奥を気にし続けるが、そこには本当に小さい人間が動いている様子が捉えられている。その他あげ始めるときりがないが、基本的に言えることは、アンナが主人公よりも画面の手前に映るというショットは、基本的に存在していない。基本的に、というのはつまり、スーパーで会計をしているとき二人を横の構図で捉えているときに若干、アンナが手前にいるかな、というところ。それから留置所で面会をするときの切り返しのショット。それだけである。しかもこの一連の切り返しのショットにおいて、アンナが手前にいるときの構図と主人公が手前にいるときの構図は異なっていて、主人公が手前のときに対して、アンナが手前のショットでは、アンナの後姿がぼやけ、さらに頭の少しの部分しか映っていない。
勿論彼が自分の家の窓からアンナの部屋を覗き見るとき、アンナの部屋が奥であることは言うまでもない。
このように、手前から奥への視線、というのが明らかにこの映画の主題として機能している。だからこそ初めてアンナの部屋に忍び込むとき、カメラがアンナの部屋の内側へとふいに入り、その瞬間いびきが聞こえてくるのを耳にしたとき、ぼくたちは物語が急速に動き始めることを、視て、知るのだ。
明らかに異質のことが起こるというのが、物語の契機であり、終焉でもある。
部屋に忍び込んだ後も、徹底してアンナは画面の奥に置かれる。横の構図でのみ、主人公と同じ奥行きで配置される。胸を触ろうとするときも、ベットの下に隠れているときも、それは変わらないのである。

こういった奥を見ることを語り続けてきた映画が、壁の出現によって、奥が失われること=奥が見えなくなることで終わる。この唐突な変化は観客を不安にさせるのには、十分なインパクトなのだ。そしてこういった寓話的な語りこそ、映画の面白さであり、すばらしさなのだと思う。

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  • 2011.09.21 Wednesday
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