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  • 2011.09.21 Wednesday
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『コクリコ坂から』とティルティングの方向について

やっとのことで、時間が出来て、『コクリコ坂から』を見ることが出来た。
以下、ぼくの備忘録的なメモである。一度しか見ていないため、そして公開中にもう一度みる時間を作れそうにないため、記述はかなり未熟なものだ。
ただ、ぼくの見方を、断片的に提示しておこうと思う。


『コクリコ坂から』の最初のショットは、いつものジブリの画像イメージである。その裏で、ネジをかりかりと回す音が聞こえ、そのまま振り子時計が秒針を刻み始め、それに併せて音楽が流れる。
次のショットは、いわゆる設定ショット、エスタブリッシング・ショットである。
ここで重要なのは、ジブリのイメージに続く2つのショットが、パニングやティルティングといった、カメラの「首の」動きを伴っていることである
そしてそのパニングおよびティルティングは、それぞれ、左から右へ下から上へという動きを行っている。

ここで一応、パニングおよびティルティングについて、簡単な説明をしておきたい。
パニングとは、カメラをパンすることである。パンとはカメラそれ自体の位置を動かさずに、カメラの向きだけを、水平方向へと可動させることだ。
同様に、ティルティングとは、カメラをティルトすることであり、ティルトとは、パンの垂直ヴァージョン、つまりカメラの首を縦に振ることを意味する。

断言しよう。
本作品には、パンおよびティルトがやたらと多い。
その代わりに、固定ショット=フィックスの画面が非常に短い。
例えば、固定ショットで人物の移動を縦の構図で収めたショットは確かに頻発する。
その被写体の運動は基本的に画面の奥へと向かう運動なのだが、ここでのショットの持続時間は、長くて3秒ほどであり、極めて短いと言わざるを得ない。

そう、この映画のフィックスのショットは、ほとんど持続せず、せわしなく次のショットへと移行していくことになる。
これを娯楽作品の、しかもアニメ作品の特徴だと考えることは確かに可能だろう。
しかし、例えば『借りぐらしのアリエッティ』と比較したとき、どうだろうか。このフィックスのショットのせわしなさは、確かに強調してよいものとなるのではないか。
あるいはそれを『ポニョ』と比べても良いだろうし、宮崎駿の以前の作品と比べても良い。

フィックスのショットは、基本的に、本作において持続しない。

では比較的持続するショットとはどのようなものなのか。
それはもちろん、パンを伴うショットや、ティルトを用いたショットであろう。

繰り返して言おう。
ここで指摘しておかなければならないこと、それはパンおよびティルトの方向である。
既に述べたように、パンは左から右へ、ティルトは下から上へと動いている。
これは本作において決定的に重要だ。

そもそもこの作品はなぜ『コクリコ坂から』というタイトルなのだろう。
これは大きな疑問である。
海の住む家の名前、それは「コクリコ荘」である。なぜ「コクリコ荘から」、ではなく、『コクリコ坂から』なのか。
この作品が例えば海という少女を主人公とした、海の周辺を舞台とした作品であるにも関わらず、なぜ坂なのかという疑問は、出てきて当然のことなのではないか。
私たちはそれを問わなければならない。

もちろんこの問いに対する正解はない。
しかし問いかけは必要である。
なぜなら、その問いが新たな読みを誘発する可能性があるからだ。

ところでぼくはこの映画を見ているときに、坂を上がる人物を見ただろうか?
確かに風間は、海が肉を買いにいこうとしたとき、立ちこぎで坂を上がってきた。しかしそれはほとんど画面に捉えられていなかったのではないか。
海が、魚屋でカレイを買おうとし、しかし討論集会へと向かうとき、私たちは彼女が坂を上がるところを目にしたのだろうか。

これは厳密に見ていないので、断言することは出来ない。けれど人物たちは、特に海と風間は、坂を上る様子をほとんど描かれないと言ってよい。
彼らはひたすら坂を下っていくのだ。

だとすれば、カメラのティルトは、すなわち下から上へというカメラの運動は、彼らの運動とは対照的な動きとなっていると言えるかもしれない。
ぼくたちの視覚は下から上へと擬似的に坂を上っていく。

とすれば、これは一種の異化かもしれない、と思ってみたりしよう。
つまりぼくたちは、海や風間と、同一化を阻害されているのだ。
カメラの動きによって。

しかしこのカメラの動きは、常に下から上へと動いているわけではない。
ある時点から、唐突に、逆の動きを繰り返し始めるのである。
つまりそれは、風間が海の家にやってきて、海の父の写真を見た後から、である。

そしてそれ以降、最後のショットまで、それまでのパンの多さからは比較にならないほどに、カメラの水平方向への首振りは見られなくなり、ティルトは上から下へという動きを反復する。
ここから、物語は明るさを失い始める。そして近親相姦という重いテーマへと踏み込んでいくのである。

これが基本的なぼくのこの映画の見方である。
すなわち、カメラの首振りの方向、とくに上下の運動が、物語(プロット)の展開と結びつき、まとめあげられているのである。

クライマックスのシーンで、彼らは父の友人である船乗りと話をする。
なぜ。
そう、なぜ、と問うておこう。
なぜ彼と会わなければならなかったのか。
それは彼らを「上らせる」ためだったのではないだろうか。

この映画の感動的なシーンのひとつとして、海が船に飛び移るときの、あの、風間との抱擁が挙げられるだろう。
しかし本当に感動的なのはそこではないのだ。
そこではなくて、そのあと、何事もなかったように船の階段を上がっていく、あのなんでもないシーンなのだ。

ここで私たちは、再び異化をつきつけられる。
すなわち、カメラの上から下へという運動と逆の、下から上へという上昇。
そのあとのティルトの動きは、ご自分の目で確かめて頂きたいと思う。



ところで、コクリコ荘は一体「坂」のどこに位置しているのだろうか。
これが非常に疑問であるのだ。
海が学校へと向かうとき、彼女は坂を「上っている」ように見える。なぜなら下校時、彼女は坂を「下っている」からだ。
しかし、自転車に乗った風間はどこから現れたのか。
そう。坂の下からなのである。
こうしてコクリコ荘は坂の「上」でもなく、かといって「下」でもない、決定不可能な位置に身を置くこととなる。






さて、ここまでがだいたいのぼくの「思いつき」なわけだけれど、全体的な感想としては、ぼくは本作よりも断然『アリエッティ』の方を支持する。
その一番の理由は、やはり、『コクリコ坂』のせわしなさにある。
この作品には、緩急というものがまるで感じられなかった。
もちろん物語上の緩急はある。ぼくが言いたいのは、画面上の緩急である。

じっくりと見せた方がいいのではないか、とおもうショットが、あっさりと消えていく画面の連鎖を見ていると、これでいいのかなあと、ただただ思ったわけです。

あと、『アリエッティ』と比べて、ロマンスの描き方が拙い。
『アリエッティ』では、視線という装置を巧みに使いながら、映画史における、見られる女性というコードを転覆しつつ、積極的に見ようとするアリエッティと少年の、視線の交わらなさを、二人のロマンスに上手く転奏させていたのだった。
けれど『コクリコ坂』は、意味的な要素(=異母兄弟か否か)がそのドラマの掛け金となっていて、それはやはり、『アリエッティ』の映画的な面白さとは比べ物にならないと思う。

総じて、まあまあな作品だった。佳作だと思う。

ぼくは『アリエッティ』の監督の新作が見たい。
宮崎駿のよりも。

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